茨城の歴史点描

茨城の歴史点描⑰ 京都に水戸藩の跡を訪ねて②

2021.12.18

茨城の歴史点描

茨城県立歴史館史料学芸部 特任研究員 永井 博

 前回に続いて京都に残る水戸藩の痕跡を訪ねます。
■京都屋敷跡
 江戸時代、大きな藩は江戸だけでなく、大坂や京都にも屋敷をもっていました。御三家の水戸藩も例外ではありません。
 水戸藩の屋敷は京都御所の西側にありました。御所の「蛤御門」から道を隔てた向かい側です(現在は京都ガーデンパレスホテル敷地)。この門は、元治元年(一八六四)七月、朝廷から追放されていた長州藩が失地回復の戦いを挑んだ「禁門の変」が勃発した場所として知られています。
 さて、藩が京都に屋敷を構えたのは、寛永十二年(一六三五)十二月六日のことでした。医師片山意庵の屋敷を大判百枚で購入しています。間口一六間余、奥行き二九間余といいますからあまり大きい屋敷ではなかったようです。 このころ、まだ経済、文化の中心は京都・大坂でした。江戸での生活に使用する伝統的な工芸品や衣類、そして先進的な文化情報をいち早く入手することは欠かせませんでした。寛永年間には、すでに七〇の大名が京都に屋敷をもっていたといいます。屋敷をもてない小大名もそれぞれ御用商人を指名、呉服などの品を入手していました。
 朝廷や将軍家などとの贈答機会の多い御三家の中でも、水戸家は紀伊家と並んで屋敷の設置は早かったですが、これは初代藩主頼房が前年、三代将軍家光の上洛にともない三か月ほど京都に滞在したことによるかもしれません。
 藩にとって、この屋敷は物品購入のためだけでなく、のちに政治文化上でも重要な拠点となっていきました。
 たとえば二代藩主光圀時代の『大日本史』編さんでは、スタッフに招かれた学者は、人見卜幽や佐々宗淳など京都出身が多く、また、史料収集面でも京都、奈良の社寺などが中心であったため、そうした時にも京屋敷の存在は大きなものがあったと思われます。
 しかし、何といっても重要な役割を果たしたのは、幕末期です。
 とくに九代藩主斉昭は、情報収集と対朝廷工作に大いに活用しました。そして、安政五年(一八五八)八月八日、この屋敷の留守居役であった鵜飼吉左衛門を通して、朝廷から水戸藩に下された「戊午の密勅」は、幕府と水戸藩の対立、また藩内対立を激しくし、さらに大老井伊直弼による「安政の大獄」を引き起こすことになったのです。

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