茨城の歴史点描

茨城の歴史点描⑱ 渋沢栄一と天狗党

2021.12.25

茨城の歴史点描

 大河ドラマ「青天を衝け」の主人公であり、二〇二四年から一万円札の顔となる渋沢栄一。幕末、農民の子に生まれた彼は、「水戸学」の洗礼を受け、熱烈な尊攘志士として活動していました。
 元治元年(一八六四)二月、栄一は京都で、慶喜を当主とする一橋徳川家に仕え、不足していた同家の兵員募集に奔走する立場になっていました。栄一はかつての自分と同じく、日ごろから学問のみならず武芸鍛錬も怠らない農民有志を集めることをめざしていました。
 ところが、ちょうどこのころ水戸藩の藤田小四郎らは、幕府に横浜港を閉鎖するという「攘夷」実行を促すことを目的として、筑波山で挙兵しました。いわゆる「天狗党挙兵」です。
 そこには水戸藩の尊攘過激派だけでなく、関東一円の広い範囲から農民志士たちも集まっていました。そのため、栄一の募集活動は難航したといいます。
 その後、天狗党は幕府や藩内反対勢力に追われ、最終的には武田耕雲斎が率いて敦賀まで行軍、追討のため出兵した慶喜に降伏します。そのとき栄一は慶喜の軍に加わっていました。
 降伏した天狗党の八割は農民など武士以外の身分の者で、いわば栄一と経歴を同じくする者たちです。栄一自身も小四郎と旧知の間柄でもあっただけに、一橋家に仕えていなければ、おそらく天狗党に加わって追われる立場になっていたことは想像に難くありません。心中複雑なものがあったと思われます。
 それから半世紀余りの時をへた、大正七年(一九一八)のこと。栄一は故郷血洗島の人々の依頼で、そこで亡くなり葬られていた二名の天狗党員の弔魂碑の撰文と揮毫をしました。そのなかで「回顧すれば余は慶喜公の軍に従ひ海津に在りて、筑波勢の入京を防止せむとせし者なり。今二士の為に此文を作る、実に奇縁といふべく、書に臨みて中心今昔の感に堪へざるなり」と記しています。
 もし、栄一の一橋家仕官が一か月遅かったならば、のちの「実業家・渋沢栄一」は誕生していなかったかもしれません。そうした思いをこめた「今昔の感に堪えざるなり」なのでしょう。
 歴史館では、この碑文の拓本を一月三十日まで展示しています。

お問い合わせCONTACT

電子版ログイン