いばらきの公共事業(歴史をたどる)

いばらきの公共事業 県土木部道路建設課編⑧

2023.11.23

いばらきの公共事業(歴史をたどる)

科学万博’85インフラ整備の思い出

渡邊 一夫 氏
元県土木部長(当時・県土木部道路建設課)

江畑 慶二 氏
元県土木部検査指導課首席検査監(当時・国際博関連公共事業建設事務所技師)

つくばを発展させた一大事業

 つくばに半年間で2000万人のお客様をお迎えするためのインフラ整備を、綿密な計画と戦略のもと、組織一丸となって努力を積み重ね成し遂げたお話です。


 科学万博つくば‘85(正式名称・国際科学技術博覧会)は、昭和60年(1985年)3月17日から9月16日までの184日間に開催されました。
 現在のつくば市御幸が丘(旧谷田部町)、つくば西部工業団地の場所が第1会場となりました。筑波研究学園都市が概成し、筑波研究学園都市建設20周年の年に、国をあげてのイベントがつくばの地で開かれたのです。「人間・居住・環境と科学技術」をテーマに、国内の28機関、海外から47か国と38の国際機関が出展。期間中の入場者は2033万人、一日平均10万人を超える大きなイベントでした。
 道路建設課での3年間、私はこの準備に大忙しでした。鉄道を利用されるお客様には、常磐線に仮設の万博中央駅(現在のひたち野うしく駅)をつくり、会場までの13㎞を2両連結のスーパーシャトルバスで対応する計画です。このために、供用済みの学園西大通りを国道354号から仮駅まで延伸し、約6㎞の4車線道路を新設する必要がありました。
 また、土浦駅からは在来型のシャトルバスをスムーズに運行させるため、約3㎞の土浦高架道が計画されました。これらについては、都市施設課(現・都市整備課)が担当し、都市局予算で実施することになりました。
 一方、常磐自動車道は昭和56年、柏~谷田部インター間が開通となり、科学万博に合わせ昭和60年2月1日、日立北インターまで開通となりました。首都高速との交点、三郷から柏インターまでは環境対策として半地下形式となり、昭和60年1月24日に開通となりました。
 東京方面からの自動車交通は①谷田部インターと②谷和原インター、また国道408号(牛久学園通り)に仮出口を設け、また水戸方面からは③桜土浦インターからの誘導が計画されました。これらのインターアクセス道路は、道路建設課が担当したのです。
 ①谷田部インターからは取手つくば線(インターから会場まで約6㎞)
 ②谷和原インターからは国道294号(インターから国道354号まで約8㎞)、国道354号(国道294号からつくば真岡線まで約3・5㎞)
 ③桜土浦インターからは国道354号(インターから東大通りまで約1㎞)
 これらは、いずれも用地取得が伴う4車線道路の新設または拡幅です。このほかに、周辺道路としてつくば真岡線の暫定4車線化(約7㎞)、土浦坂東線の拡幅およびバイパス(約6㎞)も必要な計画です。これらの整備を博覧会の開会までに完成させ、供用開始させることになったのです。
 これらを実施するための現地事務所、国際博関連公共事業建設事務所が土浦市下高津に設置されました。測量、設計、補償調査、そして地権者の皆様のご協力を得ながらの用地買収、終わったところからの工事。めまぐるしい工程のもと、四苦八苦しながらも着実に進められました。
 私たち道路建設課は予算の確保、やりくりのため、国との協議、財政当局との協議を重ねる毎日でした。
 用地補償はなるべく先行させる必要があるため、「用地国債」をできるだけ活用して対応しました。用地国債は、国の承認をもらい資金調達をし、用地買収を行い、次年度からの4年間で返済していく仕組みです。
 最終年である昭和59年度の予算では、昭和60年度の予算の一部について承認をもらって執行する、「いわゆる施越」も行いました。毎日のように事務所と各種調査、設計や用地取得、工事の進め方、それにトラブル対応などの打ち合わせを行っていました。毎日毎日の残業、日曜出勤もいとわないで頑張りました。
 各路線事業認定の手続きは済ませましたが、土地収用を行っている余裕はありません。何が何でも地権者様のご理解をいただく他なかったのです。建設業界の皆様にご苦労をかけながら、工事も急ピッチで進められました。現地事務所では一致団結、本庁と出先も一枚岩で頑張りぬいたのです。なんとか開会式前に全て完成し、供用開始することができました。
 開会式での竹内藤男知事の力強いあいさつを、みんなで感無量となり、涙ぐみながら聞いたのが良い思い出です。この一大イベントを成功させ、茨城県は大きく発展したんだなと、しみじみ思っております。

江畑 慶二(えばた けいじ)
1951年9月13日生まれ。72歳。74年4月に土浦土木へ入庁した。2009年には県西流域下水道事務所長、10年には境工事事務所長を務め、12年3月に検査指導課首席検査監で定年退職。同年4月からは、当時の経験を活かし、昱㈱に勤務している。

関連道路整備が地域発展の礎に

 私は昭和49年、茨城国体開催の年に入庁し、土浦土木事務所に配属されました。主に研究学園都市建設関連で、旧土浦岩井線、旧桜村上ノ室を流れる花室川の河川改修工事に伴う「九重橋」の拡幅・拡張の架け替え工事に携わりました。
 当時の筑波研究学園都市は、国の各省庁の研究機関の建設や、東大通り、西大通り、北大通り、南大通りの建設工事の最盛期でした。昭和52年~54年、茨城県道路公社に出向し(新大利根橋有料道路建設事務所2年間、石岡有料道路建設事務所1年間)、ただただ工事進捗に邁進しました。
 昭和55年には「国際博関連公共事業建設事務所」に転勤、科学万博を成功させるために観客輸送道路建設事業に招集されました。事務所が発足された当初は、総務部・用地部・事業部、計71名の職員でスタートしました。最盛期には、100名超だったと記憶しています。
 事務所発足当初は、観客輸送道路の明確な計画や骨格が示されておらず、各土木事務所(土浦土木、竜ケ崎土木、石下土木、下館土木)の主要事業を引き継ぎ、工事を進めていました。
 土浦土木からは、土浦北ICにアクセスする国道125号都和バイパス、桜土浦ICから学園東大通り間の国道354号の4車線化、学園東大通りの先線・土浦江戸崎線「荒川沖跨線橋」やJR荒川沖駅東口までの4車線化、谷田部明野線(現つくば真岡線)の4車線化、竜ケ崎土木からは旧桜川村古渡、小野川に架かる国道125号「古渡橋」の架け替え、千葉竜ヶ崎線利根町工区・土浦竜ケ崎線馴馬工区の4車線化、石下土木からは国道294号、国道354号の4車線化バイパス工事、下館土木からはJR水戸線を跨ぐ国道294号バイパス「一本松跨線橋」の建設工事などを進めていました。
 昭和56年に入り、観客輸送道路整備路線の骨格が示されました。常磐線牛久駅と荒川沖駅の中間に仮設の万博中央駅を設けて、そこから大型シャトルバスを運行させるため、国道354号に接続する学園西大通りまでの牛久学園線の4車線化、常磐自動車道谷和原インターから国道294号、国道354号までの4車線化、谷田部インターから取手つくば線(サイエンス通り)・土浦学園線高架道路先線の土浦坂東線(エキスポ通り)の暫定6車線化、桜土浦インターからは国道354号東大通りまでの4車線化の事業がスタートしました。
 工事設計、用地測量、用地補償費の算出、各地権者との用地交渉などと並行して工事設計書を作成し、工事発注を進めてまいりました。私は昭和55年当初、東大通り先線の常磐線を跨ぐ「荒川沖跨線橋」4車線化工事に携わっていました。その後は4年間、科学万博会場に隣接して通る土浦坂東線「エキスポ通り」建設の担当となり、用地買収と道路工事に全力を傾けました。
 用地交渉は、「科学万博」という国家的プロジェクト事業ということから、事業そのものを真正面から反対された記憶はありませんでした。用地買収で難航したのは、全面買収の地権者より部分買収で残地が残る地権者でした。理由の多くは、残地の形状、道路からの高低差による将来の土地活用を考えてのことが大半でした。また、残地面積の少ない地権者からは全面買収の要望もありました。
 科学万博の開催は、昭和60年3月17日からと決められていたため、地権者の要望や質問・心配事には昼夜を問わず、用地部の職員と一緒に、我がことのように親身になって話し合い、一つひとつ即決していきました。
 地権者の皆様方のご理解、ご協力、また建設会社のたゆまぬご尽力により無事に観客輸送道路を完成させることができ、感謝の極みでした。
 当時は「こんなに広い道路が必要なのだろうか」と思いながら工事をしていました。あれから約40年が過ぎ、関連道路の交通インフラ整備が少なからずも、仮設の万博中央駅が常設の「ひたち野うしく駅」へ、さらには「つくばエクスプレス(TX)」や「圏央道」開通と、地域発展の礎になったのではないかと自負しております。(島津就子)

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