茨城の歴史点描

茨城の歴史点描61 徳川光圀の謎②

2023.11.23

茨城の歴史点描

茨城県立歴史館史料学芸部 特任研究員 永井 博

 前回に引き続き光圀の謎に迫ります。今回は、なぜ三男の光圀が長男の頼重を差し置いて水戸藩主となったのか、ということです。
 水戸城下の三木邸で育っていた光圀に、水戸藩主の後継候補として光があてられたのは、寛永一〇年(一六三三)五月のことでした。記録によれば、水戸城に呼ばれた光圀は、藩の家老中山備前守と対面、その物おじしない態度を評価され、将来の主君として選ばれた、ということになっています。
 しかし、ここに大きな謎が残ります。すでに光圀のすぐ上の二男は亡くなっていたのですが、長兄頼重は健在だったのです。そればかりか跡継ぎの最有力候補でした。
 前回、頼重も堕胎の対象とされていたことに触れましたが、生を得た頼重は京都の寺に送られ僧侶となるべく修行をしていました。しかし、光圀が跡継ぎに決定する前年の暮、頼重は京都から江戸に呼び戻され、一足先に江戸藩邸に入っていたのです。
 では、どうして頼重が選ばれなかったのでしょうか。真相は謎ですが、それを解明するヒントは、光圀が藩主を引退する際に、瑞龍山に建てた「梅里先生碑文」の冒頭にあります。
 そこには「先生は常州水戸の産なり。その伯は疾(わずら)いし、その仲は夭(よう)す」とあります。「先生」とは光圀自身のことですが、「常陸国水戸の生まれ」であることを示した後に、「その伯(長兄)は病に倒れ、その仲(次兄)は幼くして亡くなった」と述べ、自らが水戸家を継ぐことになった理由をそれとなく示しているのです。  のちに頼重は高松藩主となりますが、高松に残る記録には、江戸に戻ってほどなく、痘瘡に罹って回復が遅れてしまったという趣旨のことが書かれています。
 ところが、水戸にはそのような記録はなく、中山備前守が光圀に対面したときの態度が大変優れていた、という点が強調されています。
 これはおそらく、本来ならば頼重が後継ぎになる筈だったのが、たまたま疱瘡という死に至ることも多い感染症に罹ったために、光圀にお鉢が回ってきた、と思われることを防ぎ、あくまでも優秀だったがゆえに選ばれたと印象づける必要があったからでしょう。
 ともあれ、突発的ともいえる兄の病のために、図らずも水戸家の二代目を継ぐことになった光圀。それは「天命」ともいえる出来事でしたが、その後の生き方を決定づけることになっていきます。

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