茨城の歴史点描

茨城の歴史点描㉚ 入れ替わる「水戸藩士」

2022.07.06

茨城の歴史点描

 「水戸藩士の数はどのくらいですか?」と、講座などでよく質問されますが、答えが難しいところです。時期によっても違いますし、そもそも「水戸藩士」とは、藩の組織階層の中で、どの範囲までを指すのかがあいまいなのです。
 『水戸市史』では、光圀時代の家臣数を「分限帳(職員録)」に登録されている一〇六七人(狭い意味での「藩士」)以外に手代・同心・中間・足軽・茶坊主などが二五〇〇人、あわせて三六〇〇人程度としています。これが「水戸藩」という組織の総人数です。幕末になるとあわせて二〇〇〇人程度に減少します。
 ところで、御三家の尾張・紀州両藩と比べると、水戸藩は五〇〇石取以上の上級家臣が極めて少ないという特色があります。さらに、二八万石という知行高(藩領全体の生産量概数。将軍から与えられる)の割に家臣数が多く、ほぼ倍の知行高(五五・五万石)の紀州藩と同じでした。つまり「御三家」のなかでは、相対的に低収入の藩士が多かった、ということになります。
 さて、藩士の家は江戸時代を通じてかなり入れ替わりました。
 理由は家の断絶と新規登用です。江戸時代の中頃までに実に四四パーセントもの家が断絶しています。その理由としてもっとも多いのは「後継者がいなかった」ということでした。
 大名でも同じですが、実子がいない場合は、あらかじめ養子をとらねばなりません。ただ、養子対象となる縁者の範囲が狭く、なかなか決まらないうちに、当主が亡くなってしまったりすると「万事休す」です。家は断絶となり家族、家来は路頭に迷ってしまいました。
 江戸時代後半になると、縁者の範囲が拡大されるなど、かなり緩和されたため、断絶の割合も大幅に低下しました。
 その一方、新たに藩士に取り立てられた者も毎年おり、結果的に幕末までには下級藩士を中心に半数近い家が入れ替わっています。新たな藩士の出自の多くは農民や町人で、学問や理財の才能を認められて登用されています。
 たとえば、幕末の「水戸学」の中心となった会沢正志斎の先祖は、久慈郡諸沢村(常陸大宮市)の農民でした。江戸時代初期に藩の奉公人として仕え、ようやく父親の時に「藩士」身分となっています。藤田東湖も先祖は那珂郡飯田村(那珂市)の農民でした。父幽谷の祖父が水戸城下で古着屋を開業、幽谷が学才を認められて彰考館に採用され「藩士」となったのです。

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