茨城の歴史点描

茨城の歴史点描 時代の変革者・徳川斉昭⑧

2021.07.30

茨城の歴史点描

茨城県立歴史館史料学芸部 特任研究員 永井 博

 斉昭は「今ある風景そのもの」を庭園のパーツに見立てて、壮大な偕楽園を造園しましたが、「吐玉泉」と「玉龍泉」という人工物も設置しています。
 米が経済の中心であった江戸時代、藩の収入の多寡は稲の作柄次第でした。藩主としては、利水、治水両方に関心を持たざるを得ません。
 水戸藩小石川邸内の庭園「後楽園」は、神田上水の水が園内を通過しています。斉昭は、この用水量の増減により、その年の干害を予測していました。冷害は予防することが困難ですが、干害ならば用水にさえ気をつければ防ぐことができます。
 そこで斉昭は干害に備え、中国の専門書をヒントに揚水機を考案、『雲霓機纂(うんげいきさん)』という本にまとめています。 
 こうした「水」に対する造詣の深さが、「吐玉泉」と「玉龍泉」の設置に結実しました。ともに台地の際に造られ、地下水を集水するという基本構造は同じです。前者は「水量」後者は「水勢」を表現したといえましょう。位置関係も含めて、両者はペアで考えなければなりません。
 「玉龍泉」は、斉昭旧蔵の「偕楽園図」には「飛玉泉」とあり、水勢に重点を置いていたことがうかがえます。当時の水の高さは一丈(約三メートル)といわれますが、現在は一~二メートルで、桜山駐車場の片隅にあります。
 現在「日本最古の噴水」として、文久元年(一八六一)に造られたという金沢兼六園内のものが広く知られていますが、「玉龍泉」は偕楽園開園時(天保十三年・一八四二)にはあったと考えられるので、どちらが古いかは明らかです。
 偕楽園の表門から入っていくと、現在は鬱蒼とした杉林と竹林が広がっています。ところが「偕楽園図」を見ると、ここは梅林となっており、本来、明るい空間が広がり、その中の坂を下っていく目線の先に「玉龍泉」が見えるように設計されていたことがわかります。この視線と動線の関係は、また後ほど触れたいと思います。
 一方、「吐玉泉」ですが、常陸太田市真弓山産の大理石「寒水石」が使用されています。石灰岩なので水に溶けやすいために、現在のものは四代目(昭和六十二年更新)とのことですが、なぜそのような性質の石を用いたのでしょうか。
 謎を解くカギは、斉昭が「寒水石」をどのような場面で使ったのか、ということにありそうです。【写真】現在の「玉龍泉」

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