茨城の歴史点描

茨城の歴史点描 時代の変革者・徳川斉昭⑦

2021.07.02

茨城の歴史点描

 前回は弘道館について建物等の独創的な空間配置をとりあげましたが、この点、偕楽園も負けてはいません。
 偕楽園の設置目的は以前触れたように、弘道館で学問、武芸に集中的に取り組むだけでは「人間力」を高めることができない、余暇の有意義な過ごし方が重要である、という斉昭の考えに基づくものでした。
 園内に建立された「偕楽園記碑」には、弘道館での修業の余暇に自然の中で漢詩や和歌を詠じ、音楽や書、茶道、華道などに親しむこと、とあります。「何かをする」ことが大切という点では、体験型リゾートにも通じる思想といえましょう。
 さて、建設地は、すでに梅苗を生産していた神崎の地が選ばれました。隣接する場所にあったお堂を移転し、楼台(楽寿楼)付の建物を建設しました。茶室も備えたこの建物が好文亭です。斉昭は、この建物を中心として景観設計をしています。
 その設計思想は、かつて斉昭の手元にあったと見られる「偕楽園図」によって知ることができます。まずは、楽寿楼から周囲を眺めてみましょう。
 ます、梅園が広がる東の方向から視点を右にずらすと、千波湖を現在の三倍の広がりで望むことができます。そのまま視点を南に移すと、眼下には春には青々とした、秋には黄金色に輝く水田が広がっています。斉昭はそのなか(今の月池のあたり)に藤棚を設けました。そして、さらに西に目を向けると、松の間に茶畑が見えます(今の徳川ミュージアム)。春には、その手前の丸山には枝垂桜、そして西側の丘は桜で埋め尽くされました。
 そのほか萩やススキ、アヤメなども植えられ、緑が絶える冬は「千波湖の雪景色をどうぞ」というわけで、水戸八景の一つとして「仙湖暮雪」を選定しています。
 こうして、偕楽園は本来、四季折々の風景が楽しめる設計になっていました。ちなみに、水田や藤棚、茶畑などは小石川後楽園、岡山後楽園などの規模の大きい大名庭園のアイテムとしてあったものですが、もとよりスケールでははるかにそれらを凌ぐものです。
 現在、斉昭が最も重視した、好文亭からの景観がかなり樹木で遮られているのが惜しまれます。もとより、景観自体も開園時とは大きく変化してしまいましたが、今後も斉昭の意図を生かした、総合的な景観設計が望まれるところです。

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