いばらきの公共事業(歴史をたどる)

県企業局長・企業公社理事長編③

2024.06.22

いばらきの公共事業(歴史をたどる)

鹿行水道事務所(鹿島浄水場、鰐川浄水場)について
~工業用水料金値下げと非常用自家発電設備の導入~

渡邊 一夫 氏
元県企業局長

塚田 正男 氏
元企業局技監兼県南水道事務所長(当時:企業局施設課・首席検査監)

鹿行大橋へ送水管添架

 北浦は霞ヶ浦の一部であり、湖面の面積が約36平方㎞で南北に細長く、湖の中央部には北浦大橋が、北部には鹿行大橋が、最南部には神宮橋、新神宮橋が架かっています。鰐川を通して、常陸利根川に通じています。水深約7mの淡水湖であり、フナ、コイ、ワカサギ、シラウオ、エビ類が多く、冬にはたくさんの白鳥が観察できるとのことです。

震災機に「自家発電」を導入

 鹿行水道事務所は昭和41年(1966年)、鹿島地区水道建設事務所として設置され、昭和44年には鹿島コンビナートへの工業用水を一部給水開始しています。北浦から取水している鹿島浄水場と、鰐川から取水している鰐川浄水場の2箇所が、鹿行地域の5市(鹿嶋市、潮来市、神栖市、行方市、鉾田市)に水道用水を、鹿嶋市、神栖市に立地する69社78事業所に工業用水を供給しております(平成20年4月現在)。
 鹿島浄水場も鰐川浄水場も、老朽化が相当進んでいたため、諸々の施設の機械設備、電気設備などの更新工事を積極的に進めました。また、老朽化した管路の布設替え工事も、よりピッチをあげて実施しました。
 ここで、私が企業局長として特に力を入れた4点についてお話します。
 まず、鹿島コンビナートへの工業用水料金の値下げについてです。鹿島コンビナートが他のコンビナートとの競争に勝ち抜くための助けとして、工業用水料金を少しでも下げられないかという話です。企業さんから、何度も何度も要望を受けておりました。局内で、将来の水需要予測や設備の更新費用予測をし、色々なケースを考えて検討を続けました。
 企業局の経営を優先して考えなければなりませんが、10%程度の値下げなら耐えられるという確信を得て、知事部局とも協議し、平成22年4月1日から実行に移しました。もちろん、企業さんには喜んでいただき、局員も県として支援できたという充実感を味わったのです。
 次は鹿行大橋への送水管添架についてです。私が土木部時代、北浦に架かる鹿行大橋が老朽化していたため、新橋を架ける段取が進んでおりました。いろいろ工夫して、やっと事業化した橋梁です。
 私は企業局に就任してすぐ、この新橋に企業局の送水管を添架できるよう、土木部との協議を指示しました。旧橋は震災時に落橋したため、新橋の整備が前倒しとなりましたが、進捗に合わせ送水管の整備を進めることができました。単独で水管橋をつくるより大幅なコスト縮減が図れたのです。
 3点目は、鰐川浄水場の震災対応についてです。鰐川浄水場は、平成23年3月11日の東日本大震災により、特に甚大な被害を受けてしまいました。液状化による被害が著しく、早期の本復旧は困難と判断し、仮設配管の応急復旧で乗り切ろうと考えました。
 地元を含め、県内建設業界の皆様は様々な対応に追われ、浄水場の復旧には手が回らない状態でした。そこで、土木部時代から面識があり、この浄水場の建設にも関わったことのある大手建設会社に急ぎ応援を要請しました。次の日から対応いただき、必要な重機、資材の確保もスムーズで、復旧工事に全力で取り組んでいただきました。
 管路についても、いたるところで被災していましたが、地元の業界の皆様に昼夜を問わず頑張っていただきました。被災のひどいところは、本管の替わりに塩ビ管を剥き出しで継いで対応したりもしました。
 鰐川浄水場の管路と鹿島浄水場の管路が、ところどころ連結管で繋がっていてくれたおかげで、鹿島浄水場から振替送水ができ、比較的早くコンビナート全域に工業用水を送ることができました。関係された業界の皆様に、改めて感謝申し上げます。
 最後に、非常用自家発電設備の導入についてです。地震の直後、11浄水場のうち10浄水場が停電し、全ての水処理機能が停止してしまいました。早いところは当日復電しましたが、遅いところは翌々日までかかってしまいました。
 停電していては何もできません。復電してはじめて色々な復旧作業ができ、水を送る段取りができるのです。局内で議論を重ね、この停電問題を解決するため、浄水場に「自家発電設備」を導入しようとなったのです。
 手始めに、鹿島コンビナートの企業群へ工業用水を送っている鹿島浄水場に設置することにしました。さっそく予算化し、私が退任した後、平成25年に完成しました。重油を燃料に発電されるもので、重油は3日分備蓄し、重油が補充できれば何日でも耐えられるのです。
 大変な事業費がかかりましたが、生きたお金だったと思っています。

塚田 正男(つかだ まさお)
 1951年9月15日生まれ。72歳。75年に入庁し、企業局へ出向した。企業局施設課技佐兼課長補佐(技術総括)、企業局施設課首席検査監、企業局技監兼県南水道事務所長などを経て、2012年3月に定年を迎えている。その後は20年から㈱かつら設計で、設計課技師長を務めている。

企業局の組織文化は『絆』

 私は昭和50年に茨城県庁に入り、それから平成23年度までの37年間、主に企業局浄水場に関わる仕事に携わってきました。浄水場の勤務箇所は、霞ヶ浦、利根川、鹿島、鰐川、那珂川の5箇所です。企業局浄水場の水源である河川水、湖沼水の水処理をほぼ経験してきました。
 鹿行水道事務所に勤務した時期は平成13~15年、そして鰐川浄水場は平成18~19年、トータル5年間となります。私の職種は機械職ですので、土木職の方とは違い、主に浄水場の電気機械設備、水処理施設の維持管理および水質管理となります。
 浄水場では、安全・安心な水の安定供給が使命でした。そのためのミッションを阻害する要因がリスクとなりますが、水源水質に大きな影響を受けて、その対応にあたってきた思い出が多々あります。
 鹿行水道事務所(鹿島浄水場)の水源は北浦ですが、その当時は藻類の発生が極めて多く、それが浄水処理により、汚泥が大量に出てくることになりました。当時の排水処理施設は、設計当時(昭和47年)の処理能力でしたので、藻類の大量発生への対応能力が厳しい状況にありました。設計時諸元との比較では、原水濁度で約2倍、排水処理施設に流入する濁度では約3倍となっていました。
 そこで、環境の変化に伴う異常事態に対しての排水処理改善調査を業務委託し、現況の施設能力に定量的な検討を加えた調査結果をもとに短期的、長期的対応を取りまとめることで、排水処理施設の増設と共に危機的状況をしのぐことができました。
 また北浦の水は、かび臭の原因となる物質が発生し、年によっては予想外の大量発生がみられます。臭気対応については高度処理となる活性炭吸着設備を備えていますが、その能力を上回るかび臭が発生した時には、ユーザーからの苦情が舞い込んできます。苦情の数の百倍は不快に思っている人がいる、と言われていますが、その対応には昼夜を問わず苦労した思い出があります。時には、年末も押し迫り、御用納めが終わって忘年会真っ盛りの課員を呼び戻し、臭気対策に明け暮れたこともありました。
 さらには、取水場の対岸に汚染物質が流入したとの情報が入り、急遽予防措置をとるため、粉末活性炭フレコンバックを取水場に持ち込むことになり、休日夜間ではありましたが、関係業者に連絡を取り、無理を言って協力を願った事態もありました。
 安全・安心な水の安定供給のためには危機管理が大事な要素ですが、水質にかかわらず、ワールドカップの日韓共同開催の年、鹿島サッカースタジアムでいくつかの試合が組まれた時には、フーリガン対応で普段の業務とは違う苦労も経験しました。フーリガン対応の訓練、地元警察、本局の協力を得て警備態勢を強化し、昼夜を問わず場内外施設・管路の巡視などを行いました。お陰様で、特に大きな問題も起こらず、無事対応できた思い出もあります。
 浄水場設備・管路に関係する建設、土木、電気機械の設備業者との緊急的な随意契約が可能な体制を構築しておくことも大事でした。そういった意味では、設備の不具合、漏水事故等、関係業者には速やかに協力を願い、ずいぶん助けられたことも多かったと思っています。
 また、東日本大震災の時には企業局の水道技術管理者として、災害対応にあたりました。前年にあった桜川市の断水事故を契機に、より盤石な危機管理体制を取る必要に迫られ、渡邊企業局長の指示のもと、一貫した支援体制とそのための準備を緩めることなく進めてきました。
 そんな中での大震災であり、教訓は大いに活かされ、局長からの指揮命令が一貫して現場に浸透したこともあり、用水供給の垣根を越え、初めて給水車から水を配り、ペットボトルの配送など、直に住民へのサービス提供も行いました。透析患者さんへの水の補給については、まさに『命の水』を届けることができたと思います。
 そして危機対応では、水道一家という意識のもと、大きな自然災害・事故対応に当たってきましたが、日ごろからの絆の深め方も大事でした。局長はその絆を深めるための努力を、公私ともに昼となく夜となくされてきました。そのお陰で、組織一丸となってのチームワークでの対応が功を奏し、迅速な対応が出来てきたかと思っています。企業局の組織文化は『絆』でもありました。
 茨城県を退職した後は、財団法人・茨城県企業公社にお世話になり、私が経験してきたことを踏まえ、浄水場の運転管理に携わる皆さんを指導する立場になりました。その職員の方々の中には、自衛隊を卒業し、初めて浄水場に来た人もいますので、即戦力になっていただくため、スキルの教育、知識の教育、意識の教育を心掛け、頑張ってきました。
 京都で行われた日本水道協会の全国会議の時に、「水道は、日本古来の武道、茶道、華道などと同じような『水の道』と捉えることができます」という話を聞いたことがありました。水道に関わる皆さんが、それぞれの立場から『水の道』を究める努力をしていただき、安全・安心な水の安定供給が継続されていることを本当に嬉しく思っています。(島津就子)

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