茨城の歴史点描

茨城の歴史点描55 穴山梅雪旧臣と「水戸藩」①

2023.07.27

茨城の歴史点描

 武田勝頼滅亡の一因として、前回に触れた「高天神城」の一件のほかに、武田一族であり側近でもあった穴山梅雪が信長・家康方に裏切ったことがあげられます。
 穴山氏は、祖を武田信武の五男義武とし、血縁的には梅雪の四代前の信介の兄信守のひ孫が信虎(信玄の父)という家柄です。領地は甲斐と駿河の境である下山(現山梨県身延町内)を中心とし、武田氏の駿河攻略に重要な位置を占めていました。
 天正十年(一五八二)二月、梅雪は勝頼が諏訪に出陣していた隙をつき、甲府に人質としていた正室(見性院=信玄娘)と嫡子勝千代を奪い返した後、家康を通して信長へのとりなしを依頼します。そして勝頼が天目山で自刃した八日後には信長と対面、領地を保証されました。
 五月十五日、梅雪は家康とともに安土城に招待されます。歓待された二人は、後日、信長と京で再会することを約して、京、大坂を見物し、堺では町の有力者今井宗久の茶会に招かれました。六月一日のことでした。
 翌日、二人は信長に再会すべく京に向かいますが、途中で茶屋四郎次郎から、未明に信長が宿泊先の本能寺で亡くなったことを聞きます。
 事態の切迫を感じた二人は、それぞれ地元を目指しましたが、家康が無事に帰り着いたのに対し、梅雪は途中で命を落としてしまいます。
 その後、家康は梅雪の遺児勝千代に父の所領を相続させる一方、家臣たちには駿府城警備などを命じるなどして直接支配下におきました。
 天正十五年(一五八七)、十六歳になった勝千代を家康は元服させ、「武田信治」と名乗らせました。勝頼滅亡によって失われた武田本家の名跡を復活させたのです。これは亡き梅雪の念願でもありました。
 ところが、信治はまもなく天然痘にかかり亡くなってしまいます。すると家康は側室於都摩の方(下山殿)が生んだ五男万千代(信吉)に信治の跡を継がせました。於都摩は武田氏家臣秋山虎康の娘で、梅雪が自分の養女として、側室として家康に差しだしていた女性です。
 天正十八年(一五九〇)、家康は江戸に移ると、信吉を小金(松戸)三万石に封じます(その後佐倉十万石)。領地支配は、幼少の信吉に代わって梅雪の旧臣たちが家康の指導、監督のもとで行っていました。
 慶長七年(一六〇五)、信吉は佐竹氏が去った水戸城主として封じられます。こうして「水戸藩」につながる第一歩が、穴山梅雪の旧臣を中心としてスタートしたのです。

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