茨城の歴史点描

茨城の歴史点描㉑ 常陸の平氏一族

2022.01.29

茨城の歴史点描

 一月から大河ドラマ『鎌倉殿の13人』が始まりました。「鎌倉殿」とは鎌倉幕府の将軍源頼朝を指しますが、13人とは頼朝死後、実質的に幕府を運営した「御家人」たちの数です。その中心が今回の主人公、執権北条義時というわけです。
 「御家人」とは、武士のなかで頼朝と主従関係を結んだ人々を指します。彼らの先祖の多くは、源氏や平氏、藤原氏など都の貴族でした。彼らが地方の官庁に赴任、その一族がそのままその地方を本拠として活動を継続したものです。
 さて、北条氏は平氏の子孫を称していますが、はっきりしない部分もあります。同じく有力御家人の三浦氏、大庭氏、梶原氏、土肥氏、畠山氏、千葉氏なども平氏の子孫とされています。
 平氏といえば平清盛を思い出しますが、とくに南関東を中心に平氏の末裔が多いのはどういうことなのでしょうか。
 実は平氏のルーツは関東、とくに常陸と下総にあるのです。それは平安時代の初期に桓武天皇の孫高望王が上総介、すなわち上総国府(今の千葉県の一部)の次官(長官は上総守)として赴任したことに始まります。
 高望王は宇多天皇より「平」の姓を下賜されます。その子孫たちは関東各地に住み着いて勢力を伸ばしていきますが、なかでも長子の平国香は筑波山麓の石田(筑西市)を本拠地としました。
 ところが、国香は甥平将門と争い殺害されてしまい、その子貞盛によって将門は討たれます。いわゆる「平将門の乱」です。
 貞盛はその後都に活動拠点を移しますが、その子孫が清盛になるわけです。
 ところで貞盛には繁盛という弟がいました。この弟の子孫がやがて常陸国に勢力を広げていきます。いわゆる「常陸平氏」といわれる一族です。
 常陸平氏は、水戸、霞ヶ浦沿岸、筑波山麓などに勢力を広げて、それぞれの地域を支配し地名などにちなんだ名字を称していきます。
 たとえば水戸近辺では、吉田、馬場、石川、袴塚、枝川、青柳、河崎など、霞ヶ浦沿岸では、鹿島、行方、麻生、塚原、芹沢、立原、烟田など、筑波山麓では真壁、東條、下妻、伊佐、小栗などの各氏です。
 常陸国といえば、清和源氏の子孫である佐竹氏の印象が強いですが、茨城県全域をみると古くから広範囲に勢力を保っていたのは、平氏の一族であるということがいえます。皆様のルーツに連なっていることもあるかも知れません。

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