茨城の歴史点描

茨城の歴史点描 時代の変革者・徳川斉昭④

2021.05.28

茨城の歴史点描

 八代藩主斉脩の次は、誰を藩主とするのか。藩内は二つのグループに分かれます。
 一つは、斉脩の弟敬三郎を推す、中下級藩士を中心とするグループです。彼らは会沢正志斎の教えをうけた敬三郎とともに藩政改革を進めようと考えていました。それに、敬三郎には、何よりも藩祖頼房の血が流れています。このまますんなり決まってもよいところですが、ことは簡単ではありませんでした。
 対抗馬となったのが、ときの将軍家斉の子恒之丞を推す、おもに藩首脳部を中心としたグループです。家斉は五〇人ともいわれる子女をもうけた将軍で、幕府老中たちは、その養子や嫁ぎ先を見つけるため、官位昇進や加増などの特典まで付けて、主な大名に打診して回るという状況でした。
 実は斉脩の正室峯姫も家斉の娘で、嫁ぐに際しこれまでの幕府からの拝借金二九万両が帳消しにされたり、下賜金として年一万両を支給されたりという、特典の前例がありました。財政難に頭を悩ます藩首脳たちが、「二匹目のどじょう」を狙うのも当然かもしれません。
 両派は水面下で激しく争いましたが、いよいよ斉脩が危篤になると、居ても立ってもいられない敬三郎擁立派は、水戸から江戸へ無断で上り、関係方面への運動を行いました。このなかにはのちに斉昭のもとで活躍する、藤田東湖、武田耕雲斎なども加わっています。
 けっきょく、斉脩が亡くなった後に、「敬三郎を後継とする」という主旨の家老宛の遺書がみつかり、この騒動はあっけなく終わります。
 こうして敬三郎改め斉昭が藩主に就きましたが、さまざまな「しこり」を藩内に残すことになりました。
 改革を進めるには、藩内が一つにまとまる必要があります。藩のトップとなった斉昭に最初に課せられたテーマは、分裂した組織の融和を進め、改革を推進するための「強い組織」をつくることでした。
 その根本は何といっても人材育成であり、最終的に弘道館と偕楽園の創設につながっていくのです。

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